役所づとめのきじばと

ウイングあつかましい言論ゼロカスタム

ほおずきあげたいおじさん

歩いていた。

ほおずきがなんなのかを知らない。なにかの植物のなにかなのだろうくらいのことは知っているが、そこまで私は知らない。乾けばカラカラになるし、乾かなければしっとりしている。そのしっとりさは鼻セレブよりかはしっとりしていないし、さっきまで顔をうずめていた枕よりかはしっとりしている。たぶん。遠い記憶のなかにいつか触れたような気がする。なにかの帰り道に拾って、家に入る前に捨てた。

捏造に捏造を重ねてみたいと思った。私は何歳にでもなって、私は私を「私」と言わずに、私は何も曝け出さなくていい。私を中心にこの世は回らなくて、かといって私がいなければ回らないような世。空想。妄想。虚言。

なにを契機にはじめたらいいのかわからない。

きっと幼稚園児もセックスをする。それはいずれかの話で、そのとき幼稚園児は何と呼ばれてるかは知らない、幼稚園児のままかもしれない。私はその瞬間に立ち会うわけでもない。ただ想像はできる。ぼんやりその映像は、この前、不動産屋の駐車場でいちゃついていた高校生に託されて、更にDMMのサンプル動画に託される。場合もあるが、直接的に、ふと、幼稚園児とすれ違う老爺に託されることもある。

老爺もセックスをする。セックスがなんであるかを私よりは知っている。風景に匂いもあれば味もある。いま、思い出しているかも知れない。すれ違った子供の顔に子供の頃の自分の顔を思い浮かべて、白粉塗って紅を差して叔母の鏡台の前に正座して鏡台のなかの娘のことを好きになって、そのあと、あの娘はどこにいったのだろうかとか、木にくくられて、童貞を失った思い出なんかを。

ほおずきが落ちていた。蹴飛ばしたいとも、拾い上げたいとも、踏み潰したいとも、歩み寄りたいとも、語り掛けたいとも、窓辺に飾りたいとか、どうしても思えない。「あるな」で終わり。

たとえば、これ拾って「おじいさん、これ、あの娘にあげてみてくださいよ」なんて言わない。妙だ。そのときの私の存在は不自然だ。勝手におじいさんが動いてくれたらいい。勝手に幼稚園児が親に話せばいい、そんで勝手に警察が動けばいい。で、事案としてホームページとかで周知させたらいい。

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