役所づとめのきじばと

ウイングあつかましい言論ゼロカスタム

今日見た夢のはなし

なぜせつないのかは知らないがせつなかった。わたしは傘をもっていなかったし、あの人と一緒に帰れなかった。公民舘にもどって、中川祥子の話を聞いた。やったことのないホラーゲームの話をされた。目の前に浮かんだ。というか視界がすべてそれになった。今日は一日、晴れていた。帰っていったあの人の背中をちらちら思い出していた。中川祥子はガンダムの話をしていた。細身の知らないガンダムの姿が目に浮かんだ。というかわたしがガンダムだった。

廃墟になったアメリカの郊外の建売一戸建ての家の中を5,6歳の少年が斧を持った(ついぞ姿は見えなかったが)男に追われるという話らしい。その少年のあとをカメラが追う。階段を登るとき、少年のパンツがみえた、gストリングのパンツがみえた。少年はズボンを履いていなかった。ワンピースらしいものを着ていた。その家の茶じみた色とマッチした、薄ぼろ雑巾みたいなワンピースを着ていた気がする。

中川祥子の調子は興奮ぎみだった。「そんなに興奮できるものなどないな私には。」と思いながら聞いていた。一瞬のパンチラにふわっと興味はそそられはしたが、それ以外はその少年が殺されようが大人になって美青年になろうが知ったこっちゃなかった。少年は殺されもしなかった、美青年にもならなかった。途中でとぎれた。ゲームの話はうやむやにされ私は中川祥子を見送った。

なにか和やかに会話しながら、雨が降ってきて、私は傘を持っていなかったし公民舘に戻って、先生らしき風の人物、顔の四角いイメージの白髪交じりの短髪の中年、と中川祥子がガンダムの話をしているのを気だるく聞いていた、とがった所しかない、所どころグリーンの細身のガンダムを自由自在に操れるゲームの話を映像として聞いていた。特別、どうなったってわけではない、サイレントヒルっぽい雰囲気の日本のどこかの町の神社の近くでの話。

さっきでかけて、ワンピースの少年に似た少女を見た。心配なくらいかわいいとほろ酔いの女に評されて、はにかんでいた。ハーフなようだが、父親も母親も純日本人だと譲らなかった。父親は肉がつきすぎているもののよく見れば二枚目でほろ酔いの女と会話がはずんでいた。

十手

字って絵よりやばくはない。絵で描けば、たぶんもてはやされ非難されるものでもたいがい許される。石原しかりマルキドしかり。とりあえず、金をもっているってとこからはじまる雑なストーリーが好きだ。金があるゆえに、好き放題できる。トリップの口実として、とりあえず登場人物には金を持たせたい。

リアルしか体験せぬままの人生なんぞ鼻糞だ。いつか、鼻糞をぬじりまくっていた小学生のころ。孤独のものにしかひとは集まらない。集めるつもりのないもののもとにしか。水曜日をいつから、週の真ん中だと思わなくなったのか。

線路で例えられる人生に嫌気が差したわけではない。はずれるはずれないの好き勝手を任せられたこともない。はじからはじまで、はりめぐされて、目の届かぬところなどない。白いかつ黒い。薄く延びた、ラテックスに包まれて眠っている子供(24)をかこっている、アパートのおれは大家だ。

近所には評判が悪い。やましいことなど何一つしてない。それがむしろ、やましいのだろう。静謐という騒音に耐えられるひとは狂人と褒めそやられる。丁重に扱われ、あるいは公然と神格化される。嬉しい嬉しくないとかいうベクトルはとうに超えた。超えたつもりで、唐突に叩きのめされる。土のつまった、爪を舐める。

残念な行為、性行為、暴力行為、自慰行為。それ以外の行為は善い行い。率先しておこなうように、子供(24)にも言い聞かせている。また、算数ドリルをもちだして、答えた問いを全部消して、はじめからやり直そうとしていた。大家としては、無言でいるべきだが、親としてひとつ小言を言った。「学校にいけよ」と。

背中にタトゥーをいれてやったあと、背中の皮をはいでやった。それをなめして、トートバッグを拵えてやった。紐はビニールテープ。アロンアルファ一本でできあがった。あしたから、まっとうになってほしい。別にあしたからでいいので。

文句をいうつもりなどない。すくすく正直者に育って欲しい。親の欲望に答えるような、礼儀正しい人間になどわたしはただただ辟易するし、いずれその手を離れるときの垢まみれのその服にジッポオイルをかけて燃やす。goodのおっぽを引き抜いたgod.飴。

M1

F1層のことばかり考えている、別に考えているほどには考えていないが、このひとたちに興味がないのはなぜなのかと、考えている。20-30代の女性。若い女をいよいよ名乗りづらくなるが、若い女らしさをもっとも求められるひとたち。意識的に求められている。好きか嫌いかの判断を自己の身勝手で決めない、なんとなく、正解にたいして従順。金も時間もつながりもほどほどにある人たち。

おれの見た感じそんなだが、やたらこのひとたちのこと自立的かつ意欲旺盛、新しい物好き、ひとことでいや元気みたいに見なしているらしい。そんなひとの心をつかむのがなんか知らんが、物を売る鉄則みたいなことを3日前くらいに知る。いわれてみたらそんな気もするし、そんなでもない気がする。きゃりーぱみゅぱみゅがよく例に出されている感がある。M2層からF1層そっからT層にくだってくみたいな、幻想。いつまでも見ていたい。

T層にはなにがないんだろうか。T層はバカみたいに、群れる。学校とかいう群れるようにつくられている場所があるからだが、その枠組みがなくても、群れる。群れる場所が無いとき探す。その場所を。場所が無ければとりあえず、正解を探す。探したかったと思うおれのT層のころは、ギターがうまくなりたかったような気がするし、wikipediaを妄りに見耽って、知識を得たような気がしていた。金は使えなかった。使う必要がなかった。金で買えるもんなんてしょうもないもんしかないと思っていた。ひたすらにマスターベーションに勤しんでいたし、肩の荷も軽かった。どこにでもいけるのは頭のなかだけだが、別にそれでよかった。そっちの方が幸せに思えていた。

M1層はだいたいにおいてF1層を恋人に選んでいるしF1層はM1層を恋人に選んでいることに気付く。T層もT層同士で、C1層もC2層もそれ以上の層も。それは単なる妥協じゃなかろうかと疑っているんだが、そんなでもない気もしないでもない。誰が誰を愛しても自由だなどとうわっつらの理想に騙されていない、皮膚感覚の愛のヤバさ、超えてはいけない一線、ほんとは愛したくすらない。などという希望ももってもいいのに。このひとたちは。というか私達は。ゴミみたいに分別されてる私たちは。

 

拍車

どうでもいい感に最近、拍車がかかってきている。単なる鬱病を告白して、つきあってくれている人がいる。なにごとも、どうでもいい。おまえの考えるよりは狭い範囲のなにごとにもだが。おいしいお肉食べても幸せになれなかった。なれるにはなれたが、それより、濃い幸福を味わったことがあった。前日、糞ほど飲んだ。ひとりで飲んだ。朝5時に飲んだ。酢を炊いて、酢飯して寿司を握って。吐かずにすんだが、一日は棒に振った。一昨日くらいのことだ。

知らない言葉が山ほどあるのに、気付けるのは幸せだと思うと共に焦る。焦ってから、これまたどうでもよくなる。エメグリ、ジャンスカ、おでこ靴、ダフィネブルー。知ってる言葉で間に合わせたってなんも別に問題ない。黄緑スカート靴水色。ただ、おまえの頭に浮かんでくれないのは少しさみしい気もするが、どうでもいい。

なにを原動力にすればいいのか、最近またよくわからなくなってきた。支離滅裂な僕見て欲求から、なんとなくブログをはじめてみたが、2日くらい書かなかったら、どうでもよくなった。これじゃいかん感が全然ない。モチベーション保たせ継続日数カウンターを、50000日くらいには、伸ばせるんじゃないかと、思っていたがたぶんこれもどうでもいい。

じゃあ死ねよ。って浴びせられても、はい死にます。ってほど、状況が整ってない。おれの場合。そこそこ温もりを得て暮らせている。ぬるいのかぬるくないかと聞かれればぬるいが寒い季節だし少しでもあったかいほうがいい。寒い季節だしぬるいほうがいいっていうマインド。そんなもん、もう終わってんな。とも思う。冷たい水の中を登っていくもんだと思っていたから。親親戚知人から完全に引き剥がして「さぁ死ねますよ!」ってセッティングしてくれたら、らくちんだな。とは思う。白石なんとかって人も単なる仕事のできるという人としか見てない。GJ。彼を語る上で必要な言葉はそれだけだと思う。

役立たず。好きだ。役に立つ前提で擦り寄ってくるより、ただそこに捨て置かれていてくれ。ゴミ捨て場に偶然か意図してか、小ぢんまりと澄ました犬だか熊だかわからないぬいぐるみみたいになりたい場合どうしたらいい。

オムツァーフロンティア

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オムツァーフロンティア、直訳すれば、オムツ愛好者の開拓地である。この言葉が背反した二つの概念から成り立っていることは、即座に気付かれるだろう。オムツ愛好家とは寵愛を望むものたちの叫びだし、フロンティア精神とは、脱出を目指すものたちの叫びだ。どちらも安心や自由を求める部分においては共通しているが、その方法において真逆のように見える。

オムツァーが寵愛を望むとき、望むのは親的存在である。まだ、赤子ならばいざ知らず、意識的にそのようなものを望みだす年齢にはすでに親は自分をそのようには扱ってはくれない。ねんごろ、甘えてみるなどという手立てはすでに功を奏さない。そんなことには既に気付いている。欲しいのは糞甘である。しかし親には変態になってほしくない。かつての、なんでもない己を許してくれた環境。そこに戻りたい。そこにたどり着きたい。変態は私一人で十分。そこで、オムツァーはまずオムツを履く。形から入ってみる。鏡に映るその異常さに苦笑いしながらも、かすかに希望を感じる。「新しい親を探そう」と。

ここまで、昨日書いてどうでもよくなった。オムツァーフロンティアってそもそもなんなのさ、思いつきでしかものを言えない。計画など立てたことない。下段のフロンティアスピリットについて、考えていたら己の無知が急に恥ずかしくなった。ゴート民族のこととかアメリカ先住民を駆逐したものたちのことをうっすらとすら、知らない。

要するに、たぶん、オムツァーにしろフロンティアンにしろ。郷愁を求めてるだろみたいなことを賢そうに語りたかったんだと思う。フロンティアンだって、逃げ出した先では逃げ出した先の業には従わない。これまでの己の環境を再現しようとする。あるいは、これまで以上の環境を構築しようとする。それはオムツァーにおける親のようなものに対しての甘えと同等のものであるみたいなこと、いいたかったんだろうな。

だいいち、オムツァーに対してなんの思いいれもない。なにを考えて、あのひとたちがオムツ着用した自分の写真をネットにうpしているのか。単に恥ずかしがりたいんだろうとは思うが同時に辱めたいんではなかろうかとか思ったりしてるって話