役所づとめのきじばと

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オムツァーフロンティア

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オムツァーフロンティア、直訳すれば、オムツ愛好者の開拓地である。この言葉が背反した二つの概念から成り立っていることは、即座に気付かれるだろう。オムツ愛好家とは寵愛を望むものたちの叫びだし、フロンティア精神とは、脱出を目指すものたちの叫びだ。どちらも安心や自由を求める部分においては共通しているが、その方法において真逆のように見える。

オムツァーが寵愛を望むとき、望むのは親的存在である。まだ、赤子ならばいざ知らず、意識的にそのようなものを望みだす年齢にはすでに親は自分をそのようには扱ってはくれない。ねんごろ、甘えてみるなどという手立てはすでに功を奏さない。そんなことには既に気付いている。欲しいのは糞甘である。しかし親には変態になってほしくない。かつての、なんでもない己を許してくれた環境。そこに戻りたい。そこにたどり着きたい。変態は私一人で十分。そこで、オムツァーはまずオムツを履く。形から入ってみる。鏡に映るその異常さに苦笑いしながらも、かすかに希望を感じる。「新しい親を探そう」と。

ここまで、昨日書いてどうでもよくなった。オムツァーフロンティアってそもそもなんなのさ、思いつきでしかものを言えない。計画など立てたことない。下段のフロンティアスピリットについて、考えていたら己の無知が急に恥ずかしくなった。ゴート民族のこととかアメリカ先住民を駆逐したものたちのことをうっすらとすら、知らない。

要するに、たぶん、オムツァーにしろフロンティアンにしろ。郷愁を求めてるだろみたいなことを賢そうに語りたかったんだと思う。フロンティアンだって、逃げ出した先では逃げ出した先の業には従わない。これまでの己の環境を再現しようとする。あるいは、これまで以上の環境を構築しようとする。それはオムツァーにおける親のようなものに対しての甘えと同等のものであるみたいなこと、いいたかったんだろうな。

だいいち、オムツァーに対してなんの思いいれもない。なにを考えて、あのひとたちがオムツ着用した自分の写真をネットにうpしているのか。単に恥ずかしがりたいんだろうとは思うが同時に辱めたいんではなかろうかとか思ったりしてるって話